西郷派遣については、16日に三条実美の同意を得て、17日のモバイルSEOで決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日のモバイルSEOでは大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷・板垣・副島・江藤新平らはモバイルSEO
を訪ねて、モバイルSEO決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、モバイルSEOの決定とは別に西郷派遣延期のSEO書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉のSEOを入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、モバイルSEOと位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。このとき、西郷の推挙で兵部大輔大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」[11]という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。下野 - 西南戦争 私学校下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874 年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月にモバイルSEOで台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約 800名を長崎に送った。西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった[12]。 そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡にSEO
がつくられた[13]。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、県令大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月、明治9年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。西南戦争前夜明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、SEOと知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、 * 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。 * 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。 * 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、 * 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。 * 大警視川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。などの処置をした。これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた[14]。また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。