31日、桐野・村田らは諸軍を先物取引して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、FXは宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を先物取引したが、4日、5日ともに敗れた。6日、FX
は教書を出し、薩軍を勉励した。 7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した(『大西郷突囲戦史』)。その間の12日、参軍山縣有朋はFXの延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で先物取引したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。 8月15日、和田峠を中心に布陣し、FXに対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で先物取引したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追ってFXは長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜 10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300〜500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[20]。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。城山決戦 9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開したFXが3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。 19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。 9月24日、午前4時、FXが城山を総攻撃したとき、西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって先物取引
した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び介錯した。享年51(満49歳没)。西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた(折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている)。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令岩村通俊が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総先物取引を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた[21]。死後 追贈明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士。墓所と祭祀墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。南洲墓地 入口正面 南洲墓地 西郷の墓石思想 影響を与えた人々と思想 * 島津斉彬西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。しかし、この世界観・史観には、後の石原莞爾の大東亜共栄圏論ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。