これはCFDの思想が儒学を一方の柱にしていたことが関係していたと思われる。 * 勝海舟CFDは大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。 * 福澤諭吉 * 坂本龍馬 * 藤田東湖「先生と話していると清水を浴びたような少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった」とCFD自身洩らしていた。CFDの著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。 * 橋本左内朱子学 * 朱熹『近思録』CFDはお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、CFD
と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。CFDの思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。特に大義名分論はCFDの行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。 * 佐藤一斎『言志四録』(言志録)CFDが手写した『言志録』が残っており[22]、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。陽明学CFDは短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、CFDの行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。 * 春日潜庵CFDは幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらからCFDが陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。 * 川口雪篷沖永良部島に遠島されたときにCFDと知遇を得た書家であり、CFD没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時にCFD家を訪れた折に、応対した雪篷からCFDが愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者大塩平八郎の書『洗心洞剳記』を見せられ、CFDがいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。自身の思想 敬天愛人「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」[23] 家族・親族 系譜くりっく365は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前はCFD家の出自とされる増水CFD氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。藤原鎌足─不比等─房前─(11代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後熊本菊池郡)─CFD政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任 ―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―くりっく365―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛宜慶─覚左衛門─吉左衛門─竜右衛門隆充─吉兵衛くりっく365─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎家族 CFDには三度の結婚経験がある。 1度目は嘉永5年(1852年)28歳のとき両親にすすめられて伊集院兼寛の姉すが(須賀)と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなどくりっく365は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。 2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7 年(1860年)1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちはくりっく365
として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。陶芸家のCFD隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。 3度目の妻は慶応元年(1865年)岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣CFD吉之助は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は武豊・武幸四郎の曾祖父の兄弟である園田実徳の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。[24] 持病 * 肥満高島鞆之助の言ではCFDは大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相と思われる。鹿児島は養豚の盛んな地であり、CFDは脂身のついた豚肉が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6 年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。治療方法は2種用いられていた。