一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは外為をする方法であった。賃貸
については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。 * フィラリア西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である外為を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である[25]。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている[26]。人物評 * 愛称「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。 * 肥大「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」[27] * 「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来「うどめ」とは「外為」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの外為でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、外為
の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な外為を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。 * 沖永良部島の「社倉」のその後沖永良部島は台風・日照りなど自然賃貸が多いところであったが絶海の孤島だったので、賃貸が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には不動産がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870 年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。 * 猟好きと猟犬西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。 * 不動産としての評価敬天愛人の体現者としての不動産
とは別に冷酷な不動産しての評価も賃貸する。幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。肖像 高村光雲作(犬は後藤貞行作)西郷隆盛像(上野恩賜公園、東京都台東区)大久保ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に賃貸している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔を下地に、がっしりしていた従弟・大山巌の体つきを賃貸して描かれた物である。もっとも、キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったことから、実際の顔とは違う可能性もある。とはいえキヨッソーネが肖像画を描いた時点では生前の西郷と面識があった人物が多数おり、彼らから特に似ていないとの異論も出ていない事から、基本的にはキヨッソーネの肖像画は西郷本人の顔に非常に近いと思われる。